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牡猫ムギの人生観

オス6歳、もと野良ネコ。

「名脇役」と呼ばないで

もう10年以上まえの話になるけれど、元東京サンシャインボーイズの俳優・伊藤俊人クモ膜下出血で急逝したとき、主宰の三谷幸喜が彼の死を伝える報道に対して「彼のことを『名脇役』とか『名バイプレーヤー』などと書いてほしくない。彼はたんに優れた俳優だったのであって、優れた脇役俳優だったわけではないのだ」という意味のことを言って(書いて)いた。

で、週末の朝の情報番組の司会をやっていた内藤剛志がそれを受けて「自分も三谷さんの言うとおりだと思う。脇役なんていうのはないっ!」と放送で言っていて、私はそれを見ながら「いや脇役はあるけどな」と思っていた(まあ内藤氏は「脇役俳優なんていうものはない」と言いたかったのだけど)。

という記憶があるのだけど、どこでそんなこと言ってたんだっけとあらためてソースを探してみると見つからない。三谷氏がこういう話題を取り上げるとしたら朝日新聞の連載「三谷幸喜のありふれた生活」じゃないかと思ったのだが、この時期のエッセイをまとめた『三谷幸喜のありふれた生活2・怒涛の厄年』を読み返してみても、脇役がどうこうなんて書いてある文章はなかったのだった。困った。困ってしまったので、とりあえず同連載の中から伊藤氏がどういう俳優だったかを端的に書いている部分を引用してみる。

……場の空気を読むのがうまかった。最近はバラエティー番組で見ることも多かったが、彼の本領はやはり舞台だ。
 これから歳を重ねていくに連れ、あの独特の軽さの中に悲哀やペーソスが滲んでくるはずだった。哀しさを表現しても決して重くならない、日本では珍しいタイプの俳優になるはずだった。多くの演出家に愛され(彼と組んだスタッフは、必ずもう一度彼と仕事をしたがった)、シリアスな演技も出来る喜劇役者として、今以上に貴重な存在になるはずだった。
 そして五十歳くらいで、映画かテレビか舞台かは分からないけど、地味だけれどいい作品に巡り合って、人生に疲れた主人公の小市民を哀愁たっぷりに、でもカラッと陽気に演じて、その年の賞を総なめにするはずだった。
 伊藤俊人はそんな役者だった。そして彼はそれを実現する前に、あっという間に逝ってしまった。

(『三谷幸喜のありふれた生活2―怒濤の厄年』「頼れる友が逝ってしまった」)

とりあえず、「名脇役がどうした」とは一言も言ってない……なんて別になんの証明にもなりはしないのだが、同じことをナーンモ考エテナイスポーツ紙の記者(偏見)あたりが書くとしたら絶対「名バイプレーヤー」と入れたくなるような文脈には見える。けれどそのかわりに、三谷氏は「50歳くらいで主役(主人公)を演る」といっている……

……三谷さんが脇役云々と言っていたという証拠を見つけるのには失敗してしまったので(だめじゃん)、ここからは私見を述べます。

だいたい「脇役俳優」なんていうと、まるで脇役専門の役者みたいでおかしいだろうと思う。もしそういう専門の俳優が存在するなら、主役のオファーが来ても「自分は脇役ですから」とかいって断っちゃうのだろうか。

そりゃ人気や実力がちょっとイマイチなのでまだ主役は張れないよという役者はいるだろうけど、彼ら(マスコミの人)の言う「名脇役」ってそういう意味で使ってるわけではなかろう。多分褒めてるつもりなんだろうけど、言われる方はそういうレッテル貼りみたいなことされて嬉しいものなのか。

私は別に役者じゃないのでここから先はただの推測なのだけど、俳優さんというのは好き嫌いや得手不得手みたいなのはおいといて、来た役を淡々と引き受けるというスタンスの方が大部分なんじゃないかという気がする。演技力に自信のある人ほど、こういう役はちょっと……なんて言わずに「使ってくれるならどんな芝居でもしてみせますよ私は」みたいな矜持があるんじゃないかしら。ましてや「この役はワキだからいや」だの「主役はちょっとできません」なんて言う俳優がいるとはあんまり思えない(いやまあちょっとはいるかもしれないけどさ)。
 
www.nikkansports.com

だからこの記事を読んだとき、なんだかすごーく複雑な気分だった。いや、ブコメにも書いたとおり、出演する本人たちが納得しているのなら部外者がどうこう言うスジアイの話じゃないのだけれど、作り手(プロデューサーやディレクターや脚本家)が率先して「ハイこの人たち脇役俳優」なんて宣言しちゃうのって個人的にはあまり愉快でない。結構なキャリアのある方々にむかってそりゃさすがに失礼だよ、としか思えない。

のだった。

売れるものと良いもののブックマークの件補遺

 

anond.hatelabo.jp

という記事に、teebeeteeさんが(←IDコールにしない軟弱者)

「興行収入」って数字一つで言ってしまうけど、それも一人一人が見てるってことなんだから、素直に喜んでいいじゃん。「売れるものに良いものはない」みたいなのは蓮實重彦とかの妖怪連中に任せておけば良いんだよ。

 というブコメをつけておられて、「蓮實センセそんなことどこで言ってました?」と伺ったら

昨年の磯崎憲一郎との対談で言ってました。「新潮」の2015年7月号のようです(いま現物確認できない)。半ば締めのジョークのようなタイミングでしたが、両義的に「うわっ」と思ったのでよく覚えてます。

 とお返事をいただきました。多謝。それでちょうど仕事が休みだったので、図書館に見に行ったわけです。図書館て便利。

件の記事は「愚かさに対するほとんど肉体的な厭悪/蓮實重彦×磯崎憲一郎 つつましさとあつかましさを兼ね備えた作家はいかに現代小説の可能性を切り開くのか?」と題された対談で、磯崎氏の『電車道』という本の刊行を記念してのものらしい。

はじめは神妙にアタマから読み始めたんだけど、わたしこの磯崎憲一郎という方の小説読んだことないので(ていうか名前すらほとんど知らなかった*1)、面倒になって途中すっ飛ばして終わりのとこだけ確認して帰ってきました。引用します。

蓮實 (……)映画の世界では、ごくわずかな例外を除けば、漢字三文字の題にはするなというのが昭和四十年代の風潮で、『大魔神』と『大海賊』くらいしかないんです。なぜかというと、当たらないものが多かったからということだそうで、それが本当かどうかは分かりませんが、たしかに言われてみると、漢字三文字というのは何かとっつきづらいようにも思う。でも、こうして表紙を見ると、収まりのよさとは違う力を持っているような気がする。だから、今回の『電車道』で「ついに磯崎憲一郎が漢字三文字の小説を書いた」と思いました。そこは意識されていましたか。

磯崎 いまご指摘いただいて初めて気づきましたが、三文字が当たらないのでしたら、純文学と言うものは無理して売ろうとしなくていいんじゃないかって僕は思っていますから、それにお墨付きをいただいた気がします(笑)。

 芥川賞を受賞したときに「圧倒的多数で受賞が決まった」と新聞に書かれていたことについて、蓮實さんが『随想』で「これが圧倒的な多数を得るわけないだろう」と書いてくださいました。僕はデビューから八年経ちますが、蓮實さんがおっしゃったとおりだということはもう痛いほど実感しております。それを承知の上で、僕らは純文学、現代文学を書いているのですが、それでも少しは売ろうとしていることのさもしさが悲しいんです(笑)。いいものなら売れるわけがないんだから。そのことが、今回題名が三文字だということにも滲み出ているのかもしれません(笑)。

この部分に「いいものなら売れるわけがない」という小見出しがついています。まあ蓮實先生も積極的に反論してるわけではなく「売れなくてもいいんだ」という価値観は共有してるみたいのなので目くじら立てることもないのですけど、正確を期すなら、言ったのは蓮實でなく磯崎憲一郎であり、「売れるものに良いものはない」ではなく「いいものなら売れるわけがない」ということなわけでございました(この二つの文は同じこと言ってるような気がするけど論理学苦手なので自信ない)。

さて、なんでこんな細かいことに拘泥っているのかというと……

学生時代に聞いていた蓮實先生の「映画表現論」という講義の中で、「ヴィム・ヴェンダースの『パリ・テキサス』なんてはっきり言ってそんな大した映画じゃないが、もしこれがコケると今後ヴェンダースの作品が輸入されなくなってしまうかもしれないので、恥をしのんで宣伝に努めているのだ」というようなことをおっしゃっていて、子供心に(子供じゃねえ)「さすがだなあ」と思った覚えがあるのです。

なので、もしテーベーテーさん(て読んでいいのかな)のブコメ通りのことを積極的に言ってたのなら先生も老いたものだなあと悲しい気持ちになるところだったのですけど、まあそうではなかったということでとりあえずホッとしたのでした。

 

……あっ地震だ……結構でかい……

*1:はじめ堀井憲一郎と勘違いして???ってなった

斎藤美奈子「『リベラルはどこがダメか』を検証する」の件

 

はてなブックマーク - 「リベラルはどこがダメか」を検証する(斎藤美奈子)|世の中ラボ 第75回|webちくま

 

斎藤美奈子といえば、まずなによりもフェミニズム批評の人であって、左右どちらかといえば左に近しいのだろうけど、明確な左派というよりは党派性そのものをフェミニストの立場から批判する立場というのが正確なところじゃないかと思う。しかしこのコラムは論旨が「党派性を批判する」というより「左派のダメさを指摘する」というのに変わってしまっているので、今まで親しんできた『あほらし屋』『物は言いよう』『月夜にランタン』等の著作とは若干趣がちがっている。

これが「運動の中心にいた人物からの左派批判(=自己批判)」ならたいへん重要な分析だし「左右の対立から一歩離れた立場からの左派擁護」もまた書かれるに値する文章だろうと思う。だけど「安全圏の人間が負けた方を叱る」なんて、ようするに試験に落ちた受験生に対して「しっかり勉強しなきゃダメじゃないか」と言って叱るようなもんで「んなこたわかっとるわい」としかいいようがないのではないか。あるいは

 

 

ってことじゃないスかね。

つーか、そう思っていたんなら先に言えって。後出しジャンケンなんてやっても、喜ぶのは反対勢力だけじゃん。

と、思いました。

 

 

「人生を狂わせるブックガイド」の件

随分とはてブを集めたブックガイドの記事について、

 

京大院生の書店スタッフが「正直、これ読んだら人生狂っちゃうよね」と思う本ベスト20を選んでみた。 ≪リーディング・ハイ≫ - 天狼院書店

こういうリストは、えてして「本」といいながらほとんど文学からしか選ばれていないのが、私は気になるのよなあ

2016/06/30 13:51

 というブコメをつけたのだけど、それの説明。

 この方にかぎらず、たとえばニュースやなんかで「出版不況」とか「若者の活字離れ」とか言われるときなどにイメージされる「本」というのは往々にして文芸書、なかんずく小説であることが非常に多いという傾向があって、個人的にそういう風潮をニガニガしく思っておりました。

言うまでもなく、本屋や図書館に一歩はいれば文芸書以外にも(かつて勤めていた店の分類を借りるならば)人文書・ビジネス書・理工学書といった専門書や、コミック・実用書・辞書学参・児童書・芸術書・地図旅行ガイド等々といろんなジャンルの本があるわけで、それらの本がしばしばまるっと無視されるというのはやっぱり納得いかんものがあるのです。(そこで「日本の国語教育がしばしば文学偏重になりがちなのは、近代口語文の成立いわゆる言文一致運動がおもに小説家によって担われたからだ」とむかし丸谷才一が書いていたような気がしたので『日本語のために』を引っ張り出してきたのだけど、かすってはいるもののズバリ書いてる部分がなかった。何か別の本だったのかしら)

いやだから、挙げられている銘柄がヨクナイというわけではありません。どれも名著だし(私は2,3冊しか読んだことないけど)、有名な本ばっかりだし(12番は知らなかったけど)。あるいは「私はこの本を読んで人生狂った」というテイなら問題ないと思うのだけど、「あなたの人生を」って言っちゃってるしなー。

なんか難癖っぽくなってアレなんだけど決してそういうつもりではなく、理工学書や辞書や児童書じゃ人生が変わることはないの? と、つい思ってしまうのです。だからたとえば『零の発見』とか『日本人の法意識』とか『狂気の歴史』とか『東京ミキサー計画』なんていうたぐいの本が混じってたらよりステキなんじゃないかなあと、こういうリストを見るたびに思うわけです。

 

 

話のついでに風呂敷を広げると、こういうブックリストって「選別と排除」だよなあといつも思う。つまり選ばれた本について語るだけでなく、選ばれなかった本は何故選ばれなかったのか? についての意識があるべきではないのかと思うのです。上の丸谷才一に対して蓮實重彦は「だがそれにしても、何という退屈な美しさであることか。人は、言語学など信じてはならぬように、文学など信じてはならない」と書いていますが、その同じ本(『反=日本語論』)でこのようにも言っていて、これは今でもきわめてクリティカルな問題意識でありつづけていると思います。

……ここで改めて、排除と選別の体系へとたち戻らねばならぬ。そして、「二個の者が same place ヲ occupy スル訳には行かぬ」という命題が漱石の周囲に漂わせていた「執濃」さを、血なまぐさい古代的野蛮さとして、われわれ自身のまわりにより濃密によみがえらさねばならない。言葉をめぐる諸々の言説を、古代の粗野で残酷な闘争の場に据えなおしてみなければならない……

 それにしても『日本語のために』と『反=日本語論』は、私の人生を狂わせはしなかったものの(いっそのこと狂ったほうがもうちょっとマシになってたかも)大きな影響を受けたなあとあらためて思う。もしかするとそれだけが言いたくてこの文章を書く気になったのかも。

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