大屋雄裕『自由とは何か』を読む

ひととおり読んで、結論がいまひとつすっきり飲み込めなかったので、もう一回メモを取りながら読んだら1か月かかってしまった。
はてな検索」で探してみると、この本についてはすでに多くの人が言及している。とくに
「自由とは何かーーk-takahashis雑記」 http://d.hatena.ne.jp/k-takahashi/20080520/1211295492
と、
「オーランシー必読『自由とは何か』 http://d.hatena.ne.jp/mallion/20081104/p3
のまとめがわかりやすい。私こんなにうまくまとめられない。詳しくはこれらのページをご覧ください。
というのも情けないので、自分なりに要点を抜粋してみると

第1章「規則と自由」

  • 民法が想定するのは「自由で自律的な個人」
  • ・個人の自由を制限するのは国家・共同体・他の個人
  • ・二つの自由「消極的自由 」(単に制限のない状態)と「積極的自由」(実効性のある自由を獲得するための積極的な関与)

第2章「監視と自由」

  • ・権力の監視によって、自由が侵害される側面と自由が守られる側面がある
  • ・自由を 確保する方策は「国家の過剰」と「国家の過少」という二重の危険のあいだの隘路をさがすところにある。
  • ・監視の目的はたんに見ることではなく、対象の行動を予測しそれに対処することであり、そこでは「個人」が統計処理の可能な確率的存在へと還元されている。
  • アーキテクチャの権力は我々を事前に制約し、「個人」を必要としない。
  • ・事前規制はリスクを除去するが、(設計次第により)あまりに大きな代価を要求する。事後規制は個人の自由を確保するが、「最初の1人の犠牲者」を止められない。

第3章「責任と自由」

  • ・「自由な個人だから責任を負わなくてはならない」のではなく、「責任を負う時・負うことによって」私が自由な個人になる。
  • ・「自由で自己決定する主体」というのはフィクションだが、現代の社会はこのフィクションの上に成立している。
  • パノプティコンは「個人」を生み出すが、アーキテクチャの権力は「個人」を必要としない。アーキテクチャによって事足りるのであれば、「自由な個人」というフィクションにこだわる必要もなくなるのではないか?
  • ・いやアーキテクチャによる社会が完成するとは考えられない。「自由な個人」とはいまだ信ずるに値するフィクションである。

こんな感じでどうだろう。

第1章で語られる「消極的自由」だけを徹底的に追及しようという思想を「リバタリアニズム」というそうで、私はこのコトバだけ聞いたことがあったものの意味がよくわかっていなかったので、ちゃんと説明してもらえてよかった。
自分なりに解釈すると要するに「個人の自由を最大限に保証すれば物事は最終的になんだかんだでうまくいくよ」という考え方だと思うのだけれど、この「なんだかんだ」のところに「神の見えざる手」のごときものが想定されているのではないかと思う。
ここで、去年読んだ『アメリカ政治の現場から』という本の、次の部分を参照してみる。

アメリカで何かを保守する、伝統を守るという場合、「人間の力を超えた神の手による秩序」を意味する。アダム・スミスがいう「神の見えざる手」による市場の安定とは、人間が市場に介入してあれこれ操作する必要はないということで、要するにシカゴ学派経済学がいう「小さな政府」である。神が与えた秩序に対し人間があれこれ加工してはいけないのであるから、クローン開発も妊娠中絶も大きな罪になる(……)神から授かった子は育てる義務があるという考えを、胎児の生命尊重派Pro-Lifeという。
それに対し、「リベラル」というのは、人間の力で所与の「秩序」を組み換え、社会に人工的治療を施すことで世の中を良くしていこうという思想である。政府が市場に介入し、経済を安定させ、法制度で社会的弱者を救済し、公民権法で人権や平等を与え、環境破壊を規制しようとする。リベラル派の中絶容認をプロ・チョイスPro-Choiceと呼ぶのは、出産するかどうかの選択権は、その女性本人にあるという考えによる。

この保守/リベラルの分類でいうと、「リバタリアニズム」というのは保守の立場に近いということになる。
そこで私自身はといえば、私は自分の人生にはなるべく超越的なものを導入したくないと考えているので、リバタリアンな方々とは距離を置きたいと思っている。ただそうすると、上のまとめで言及されているところの「積極的自由」、あるべき社会のビジョンや自らの自由を確保するための社会的コミットメントが必要になるわけで、そのへん思想的な軸足がいまいちふらふらしている自分には荷が重い。というわけで、これに関してはまだ考えなければならない余地が残っている。
とりあえずは、そのときどきの具体的な論点についてその都度場当たり的に判断していくしかないんじゃないかなーと考えております(はてなにも「場当たリズム」を標榜してる方がいたような。こういう意味なのかしらん?)

さてもともと私は監視カメラのことを考えたくてこの本を手にとったのだけど、これの前に『監視カメラ社会―もうプライバシーは存在しない (講談社プラスアルファ新書)』と『プライバシー・クライシス (文春新書)』の2冊を読んだのです。前者は監視のシステムについての技術的な解説が中心で、その良し悪しについてはわりと中立的というか、価値判断は保留という感じ。ひどいのは斎藤貴男の本のほうで、もうハナから「国家権力は自由の敵!」「油断してると市民は好き勝手されてしまう!」の一点張りである。
けれども本書で著者が言うように「監視の背後に人々を幸福にしたいという信念や善意があることは、多くの場合に事実なのだ(p125)」し、「他者を監視すること、それによって自らの安全その他を確保しようという欲望はむしろ国民のもの(p90)」なので、いたずらに国家を敵視するのはナイーブにすぎると私でさえ思う。街角の監視カメラが犯罪の捜査の力になっているのは事実だし、それは監視の欠如のせいで凶悪犯罪の犯人が野放しになっている状態よりは望ましいにはちがいない。あるいは、監視カメラのおかげで我々の無罪が日々立証されつつあるとさえ言えるのではないか。
だから、ナントカのひとつ覚えみたく監視反対を叫ぶのではなくて、それこそ積極的自由を実現する場合のごとく監視の運用について明確なビジョンを持って、その目的を逸脱することのないように、逆に権力を監視する態度こそが必要なのだと思う。

またそれ以前にこの斎藤という人、別の本を読んだ時も思ったことだけど、資料をただだらだらと引用することが多くて、もうちょっとまとめてから喋れと言いたくなることが多い。あんまり手間かけないで書き飛ばしてるんだろうなーという感じ。『カルト資本主義 (文春文庫)』とかはそれなりに面白かった覚えがあるんだけど……。


そのほか本書で印象に残った部分。

バーリンは、ジョージ・オーウェルの次のような言葉を引用している。「私があなたの真の願望を表明する(……)私、指導者、われわれ、共産党中央委員会は、あなたが自分で思っているよりもあなたのことをよく知っており、あなたが自分の「真の」必要を認識するならば、あなたの欲するものを与えよう。」(p72-73)

もし監視がなされる範囲でしか犯罪を抑えることができないのなら、地域・地方・国家・世界のすべてを監視の対象にしてしまえばいいのではないだろうか?(p97)

さまざまな監視手段が相互に連結され総合的なものになるとき、単なる部分部分の監視を超えた「超記録」が可能になる(……)イスラエルの法学者ルース・ゲイビソンは、「私が司祭として初めて受けた告白は殺人に関するものだった」と「私はあの司祭に告白した最初の人間だ」という、二種類のそれ自体は無害な情報が組み合わされることによって、極めて重大な情報に転化する例を挙げている(……)結合された情報は、単独の状態では持ち得ない新たな意味を持ってしまう可能性がある。(p100)

自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)

自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)

こんな本も出たのね。