今野勉『テレビの青春』を読む

日本のテレビ草創期にTBSでディレクターをつとめ、のちにテレビマンユニオン創立者のひとりとなった著者の回想録。貴重な歴史的証言と、気楽な思い出話と、本質的なTV論がごちゃっといっしょくたになったような一冊である。
たとえば、若きTVマンたちが、TVとはなにか必死で模索している様子。

NHKのディレクター、吉田直哉がエッセイ「記録映画との訣別状」のなかで主張するには)それまでのいわゆる記録映画は、制作者の意図や主張を説得するための道具にすぎず、「はじめから、何を見せて何を隠すか決定されており、そのコンテにもとづいて制作される」「すべてイデオロギー映画のそれに近い、独裁者的な方法でショットが選択され、カットされている」。
 吉田がかわりに提唱するのは、「思考過程の現在進行形」である。
「主張」の代わりに、「仮説」が立てられるべきであり、「仮説」の前では、あらゆる事実、不利なものも有利なものも、均等の意味をもって、制作者にも視聴者にも思考を求めてくる。結論はときとして出ない。未決着のまま終わるかもしれない。「あとは、視聴者の内面での思考過程をまつ」。つまり「すべてのショットは、仮説を検証するための実験として投げかけられ」るのである。大事なのは、生起する事実を前にした思考のプロセスなのである。吉田の提示した「仮説」という言葉は、現在では「作業仮説」という、より明確な言葉となって、テレビドキュメンタリーの方法の核となっている。(p28)

 和田勉のテレビドラマ論のタイトルは「テレビ芸術論――テレビドラマは何を表現すべきか」。…(中略)…
 ここでも、旧メディアへの訣別が告げられている。「物語主義」や「スター主義」から身を遠ざけること、映画にしたほうがよかったと思えるようなテレビドラマは放送をやめたほうがいい、と和田も明快である。「脚本が面白ければそこで演出がどうころんだって面白いという奇妙な風潮が目下のテレビにある」という和田の指摘は、今なお有効である。
「ドラマは、まずは何はともあれテレビによるドラマであらねばなりませんから」と和田が言うときのテレビとは何なのか。物語をなぞったり説明したりするドラマではなく、心理と行為が一体となって表現されるドラマを、和田は目指していた。(p28)

吉田直哉和田勉に触発されるように*1、著者もまたこういう仮説をたてる。

 その時実習日誌に書いた私のテレビドラマ論。
「カメラ割りとは、演出者の脚本解釈という主観的なものを、客観的な視覚におきかえることだ。そのカメラ割り、即ち、カメラに演技者をどう捕えるか、が演出なのだ。演出者の意図は、従って、カメラに捕えられた画像によってのみ表現される。
 その際捕えられるべき演技は、モンタージュを許さない連続性を有していることが映画と異る。
 又、舞台の演出が、一つの視点によって捕えられた全体の綜合であるのに対し、テレビの場合は、比較的多数の視点から捕えられた部分と部分の総体が、演出である。
 テレビの演出は、映画のようにモンタージュされうるものではなく、又、舞台のように、単一場面の不可分な連続性を示すものでもない。
 ではテレビドラマとは一体何であろうか。単に映画と舞台の中間、あるいは両者の統合というだけでは余りに消極的すぎる。テレビドラマは、現実には、両者とはかなり異った役割を果たしている。とすれば、テレビドラマとは何かという問題が、より積極的にとりあげられてしかるべきだと思う。」(p46)

このような認識は、当時の技術的な制約(機動性のないTVカメラ、複雑な編集がきわめてむずかしいことなど)からくるところが大きいように思われるが、著者と同期入社の実相寺昭雄はまたちがった考え方をもっていた。

 実相寺は、最初から、自分の演出したドラマは、消え去っていく番組ではなく、自分の作品である、と思い定めていた。彼は、最初から明確に独立した映像作家として生きることを自覚していたのだ。
 原版のビデオは消去されてしまう。作品として残す手立てはひとつしかなかった。オンエアをキネコで撮ることである。キネコとは、テレビ画面をフィルムカメラで撮影すること、あるいはそのようにして撮られたフィルムのことである。しかし、通常の番組をキネコで撮ることなど許されない。
 実相寺は奥の手を使った。同時ネットできない地方局のためにキネコを送る場合があるのを利用し、上司の目をかすめて、地方局送り用のニセの伝票を出して、キネコに撮らせることに成功したのである。おかげで、いま私たちは、彼のすべての作品を(当時のテレビドラマを、つまりは歴史を)見ることができるのである。
 桜井美智夫*2が、実相寺は映画的人間であると喝破したのは、その意味で、正しかったのだ。(p201)

その後、いくつかの番組のアシスタントやディレクターを経て、著者はTVドラマ『七人の刑事』の演出のひとりになる。

 若い世代、とくに学生たちが私の『七刑』を支持してくれていた。ふたたび、その頃学生だった現テレビマンの記憶から。
「1967年の10月9日、私は友人の誘いに乗って街頭デモの渦中にいた。前日の羽田闘争で死んだ山崎博昭を意識してのことだ。ところが私を誘った当の友人は”今日は今野勉の『シチケイ』(『七人の刑事』)があるから、それまでに帰ろうぜ”と言い出し、実際に帰ってしまった。……」…(中略)…
「当時ビデオはなかったから、新聞のラテ欄のタイトルを見てきっと今日の『七刑』は今野勉に違いないと僕らはまっすぐアパートに帰った。今野勉の『七刑』は時に難解な回もあり、放送の翌日は必ずといっていいほど僕らは議論した。唐十郎がテロリストを演じた*3『美しい女たち』の放送後僕らはたまらずTBSに今野勉に会いに行った。……」(p329-330)

当時はTVについての情報源など新聞くらいしかなかったわけで、ラテ欄のサブタイトルだけでその回の演出を推測するとか、オタクの鏡だなあ(違う?)。

(『七人の刑事』の一エピソード)「ふたりだけの銀座」を見て、日活映画の関係者がショックを受けた、と聞いた。石原裕次郎小林旭を擁する日活の映画には毎回のように、銀座が出てきた。銀座でのロケは不可能だったので、日活は銀座の街のオープンセットを作って撮影していた。
 それが、「ふたりだけの銀座」では、本物の銀座の街を、カメラが自由自在に飛びまわっているではないか。路上に三脚を立てての撮影は許可されない。したがって、撮影はすべて手持ちカメラでやるしかない。さらに、銀座という繁華街で撮影すれば、いくら手持ちカメラといえ、人だかりができる。それをどうしのぐか。
「ふたりだけの…」では、どのシーンも、通行人が誰ひとり撮影に気づいていない。
 スタッフが私を入れて、たったの三人で、ヨーイ、スタートなどの掛け声なしで、目と手の合図だけで、ぶっつけ本番で、撮ったからである。
 スタッフ三人の内訳。ディレクターの私、カメラマンの今井昭夫、アシスタントで学生アルバイト。これだけである。(p338)

こういうゲリラ的な手法は、まだTVがなにかイカガワシイものと思われていたころの特権だろう。
技術が進歩してそれまでできなかったことができるようになると、著者のTV観も修正を迫られるようになる。

 テレビは時間である、といった言い方でのテレビの「時間性」については、その頃にはかなりの共通認識となっていた。テレビの「時間性」とは、ひとつには「中継性」であり、ひとつには「同時性」を示す。起こりつつある現象の経過時間を、同時に映像として共有できるという「同時性」。起こりつつある現象を、そのまま省略することなく映像化して遠くの受信機に届け続けることができるという「中継性」。
 この二つの「時間性」は、テレビが生放送の時代には、一体のものであった。その後、ビデオテープ・レコーダー(VTR)が出現して録画できるようになると、「同時性」は生放送で、「中継性」は生放送でも録画でも享受できるようになった。「テレビドラマ」の初期においては、その中継性、同時性が俳優の演技を舞台で観客が観るのと同じように、時間の省略なしで伝えることになり、たくまずして、省略されない演技が、独特のアクチュアリティをテレビドラマにもたらすことになった。
 しかし、1967年頃になると、ビデオテープの編集が可能になり、テープが安価になるにつれて、映画と同じような編集が可能になりつつあった。
 一時期の『七刑』でも十数カ所、時には数十カ所の編集が許認されるようになった。
 そうなると、映画とテレビドラマを、編集による時間の省略、時間の再構成か、中継性による時間の継続性か、といった指標で分けることは無意味になった。…(中略)…
実感として感じる、説明のできない映画とテレビドラマの違い。これをどう説明したらいいのだろう、と、私は考えていた。…(中略)…
「映画は<ハレ>である」「テレビは<ケ>である」というこの論文は、ある程度の肯定をもって受け入れられた。……(p341-342)

ただ、私にとってこの節で興味深いのは「映画はハレでTVはケだ」といった観念論ではなく『七人の刑事』のような人気番組でも編集の回数が制限されていた、ということだったりする。
1970年、著者は社内の同志とともに日本初の制作プロダクション「テレビマンユニオン」を設立する。当時の社長をはじめTBS社内にはこの独立を応援する空気があって(もちろん反対派もいたらしい)、「退職金代わりに中継車を1台分与ないし貸与してほしい」という条件もあっさり受け入れられたとのこと。

当時、複数のビデオカメラを駆使してスイッチングで録画できるスタジオは、テレビ局にしかなかった。ビデオカメラ用の貸しスタジオは日本には存在しなかった。そのような状況で、プロダクションがテレビ番組を作ろうとすれば、テレビ局のスタジオを借りるか、テレビ中継車でテレビ局の外で作るしかなかった。テレビ局が自分のところのスタジオを外部に貸し出すことは不可能なことは当時としては当然だった。中継車がなければ、16ミリフィルムカメラで、ワン・カットごと撮影する映画プロダクションと同じ立場になってしまう。したがって、テレビ中継車を使えるかどうかということは、プロダクション創立の成否を握っていた。
 村木*4も吉川*5もそのことは知っていた。だが、もうひとつ重大なことを見逃していた。
 当時、ニュースやワイドショーを除けば、ほとんどの番組はビデオテープに録画され、編集されて放送されていた。30分番組なら十数ブロックに分けて録画され、それを放送時間や体裁に合わせて編集し、その後、ポストプロダクションと呼ばれるテロップなどの字幕を入れたり、ナレーションや音楽を入れたりする作業があって、初めて番組として完成する。
 その肝心のビデオテープ編集機は、テレビ局にしかなかった。また、ビデオテープ用のポストプロダクション施設も、テレビ局にしかなかった。恐ろしいことに、実は、この時点では、テレビ中継車を1台与えてもらっただけでは、テレビ番組はできなかったのである。
 しかし、歴史はときに不思議な暗号をみせる。このとき、村木や吉川の動きを知るべくもないある会社が、赤坂の小さな部屋に、たった1台、ビデオ編集機を据えつけ、貸し出す目論見を立てていた。同時に、ビデオテープのポストプロダクションの建設も進めていた。
 映画の衰退を見越し、フィルム現像の先行きに陰りを見ていた東洋現像所(現在のイマジカ)である。東洋現像所のこの先行投資がなければ、テレビマンユニオン設立は、途中で頓挫していたのである。(p431-432)

イマジカえらい。
テレビマンユニオンを設立して歌謡番組やバラエティを制作したあと、大阪の読売テレビから旅番組の発注を受ける。いまでも続いている『遠くへ行きたい』である。この番組の成立にも、技術の発展が大きく貢献している。

 中継車しか使えない私たちが旅番組を作るには、新たに戸外撮影用の機材を用意しなければならなかった。旅とは、移動であり、行った先でその土地の人々と話をすることである。つまり、移動できるカメラであり同時録音できるカメラでなければならない。
 現在のように、小型ビデオカメラなどは影も形もない時代である。戸外撮影(ロケーション)は、すべてフィルム機材で行われていたが、フィルモなどの移動できる小型の16ミリフィルムカメラは、同時録音できず、音は、撮影とは別にデンスケなどの小型録音機で録音していた。
 同時録音できるオリコンというカメラは、重くて肩に担げるような代物ではなく、担いだとしても振動に弱く、揺すぶられると画像や音声が途切れるのだった。
『遠くへ行きたい』のカメラを担当することになった佐藤利明(遅れてテレビマンユニオンに参加)の目にとまったのが、ちょうどその頃発売されたアリフレックスBL400というカメラだった。肩に担げる仕様になっていて振動に強く、そのうえ、400フィートのフィルム(11分撮影可)のマガジンを装填できた。マイクで拾われた音声は、バッテリーで作動するアンプを通って、ケーブルでカメラと接続されるようになっていた。
 第1回目のカメラを担当した佐藤利明の証言。
「小岩井牧場のロケ中に、永さん*6が突然気分に乗って全速力で走り出した。BLを肩に乗せて撮っている最中です。たまらず私も撮りながら夢中で追いました。不意を打たれたのがアンプとバッテリーを背負った録音の西井さんです。この人は後続ケーブルで私のカメラと繋がっている。だから切ってはならじと必死に走った。巧まずしてこれが同録カメラの耐震テストとなり、見事に合格したのは放送されたことからも窺えます」
 戸外での同時録音は、私たちに予想外の果実をもたらした。佐藤証言を続ける。
「同録カメラの使い方に多くの指針を得た気がします。中でも強烈だったのは最後に登場する老若男女およそ10人前後の人たちです。この人たちがカメラに向かって(石川啄木の)『故郷の山に向かいていうこと無し、ふるさとの山は有り難きかな』と一人ずつ同じサイズでいう。それだけなのですが、東北地方に住む人たちの真髄に触れた気がしました。編集されたその場面を見て、ドキュメンタリー番組の演出とはこういうことなのかと、目からウロコが落ちた気がしました」
「偶然会ったお婆さんに『今まで一番遠くへ行ったのは何処ですか』と永さんが尋ねて『戦死した息子が祀られている靖国神社と、帰りに寄った華厳の滝さね』と、現地ならではのゆったりした訛りのやりとりが録られています。当時こういう場面がテレビ番組に登場したこと自体が画期的だったのです」…(中略)…
 新しい技術が新しい番組を作る、新しいコンセプトの番組は、新しい技術によって実現する、という確信が、こうして、私たちの間に生まれていった。その確信は、小型ビデオカメラを、TV局に先駆けて導入する際の決断に大きく役立ったのである。(p466-469)

その小型ビデオカメラとVTRは……

 1971年1月、重延浩と鶴野徹太郎は、海外のショーなど面白い素材を録画して構成する『世界ドキドキ博覧会』の取材のためにアメリカのロサンゼルスに行った。中継車を借りるために、テクニカラーという技術会社に行ったとき、倉庫で、スタジオカメラとは違う(フロアを動くペデスタルがついていない)ビデオカメラとアタッシェケースほどの大きさのVTR(ビデオ録画機)が転がっているのを見た。オランダのフィリップス社系のノレルコ社の小型ビデオカメラとVTR3000というポータブル(可搬性の)VTRだった。
 小型ビデオカメラといっても、相当に重くて、肩に担いだカメラを地面に向けるときは、後ろからアシスタント・カメラマンがふたりで支えなければならなかった。
 また、ポータブル・VTRといっても、スタジオのVTRと同じく、2インチ幅のテープであった。それでも、小型バスほどの車が必要だった戸外用VTRに比べれば、アタッシェケース大というのは画期的だった。(p493-494)

 1972年夏、西武グループからビデオによるCM制作を依頼された。ロケ現場は、イギリスのウィンザー城という注文だった。イギリスの中継車を借りて録画する手はずが整えられた。制作クルーは、P村木良彦、D重延浩、技術Pが後藤勝彦だった。技術会社に行ってみると、戸外で収録するなら、小型ビデオカメラがある、と教えられた。オランダ・フィリップ社製*7のLDK13というカメラだった。ビデオCMはこのカメラで収録された。日本初の小型ビデオカメラによるCMだった。
 このとき、クルーは、フィリップ社製が制作した小型ビデオPRのデモンストレーションビデオを持ち帰った。私をはじめ何人かがそのデモ・ビデオを見た。16ミリフィルムカメラと同じように、ビデオカメラが軽快に動きまわっていた。
 その頃、日本でも、池上製作所が、NHKと組んで、小型ビデオカメラの開発に取り組んでいた。72年暮れにプロトタイプ(試作機)が完成した。後藤勝彦がプロトタイプのカメラを借りることに成功した。条件は、使ってみて改良点を報告すること、ということであった。
 しかし、開発に協力したNHK自身が、画質に問題があるとして、池上の小型ビデオを番組制作に使うことを許可しなかった。
 ただ1局、後発テレビ局の東京12チャンネル(現・テレビ東京)だけがその実験に乗ってくれた。ばばこういちプロデューサー(フリー)と村木良彦プロデューサーの『私が作った番組』の枠で放送できることになった。
 私がディレクター、佐藤利明がカメラマン、伊丹十三がレポーターで、全編小型ビデオだけで撮影する企画を立てた。『LOOK――東京にも空がある』と題して、東京の屋内外に描かれたペンキ絵の「青空」を探し出し、何処にでも潜りこんで撮影しようという企画である。
 全編小型ビデオカメラの映像と謳ったために、困ったことが起きた。小型ビデオカメラを映像で紹介したいのだが、小型ビデオカメラが1台しかないため、それを撮影する映像が、通常のスタジオカメラか、フィルムカメラの映像になってしまうのである。
 全編小型ビデオカメラの映像にこだわった私たちは、ついに、その方法を発見した。小型ビデオカメラを担いだ伊丹十三が、大きな鏡の前に立ち、小型ビデオカメラを担いだおのが姿をカメラで撮ればいい、と気がついたのである。
 伊丹十三は、新しい玩具を与えられた子供のように、小型ビデオカメラを楽しんでいた。
 かくて、全編日本製小型ビデオカメラによる番組が無事放送された。1973年2月15日のことであった。(p494-498)

鏡に映ったカメラマンの姿を撮るとか、ヌーヴェル・ヴァーグみたい。

 テレビマンユニオンの小型ビデオカメラによる集大成ともいうべき番組が、1975年に、「テレビマンユニオン5周年記念」として制作された『欧州から愛をこめて』であった。
 第2次大戦の終戦直前、ドイツの首都ベルリンに駐在していた海軍武官藤村義朗が、スイスのベルンに移って、敵国アメリカのOSS(のちのCIA)のボス、アレン・ダレスと、秘密裡に和平交渉を始める、という実話を、ドキュメンタリードラマの手法で描こうというものであった。
 舞台は、ドイツとスイスである。美術セットで街を再現しようとすれば天文学的な予算を必要とする。海外ロケを敢行するにも、すでに街の様相は一変していて、当時のたたずまいを現地に再現するのは不可能である。
 私が考えたのは、街の様相が変わっていようと、実際に事件のあった現場に立って、事件をその現場で再現しようという方法である。
 いきなりその方法をとれば、観る側は混乱する。私は、その現場がかつての事件の本当の場所や建物であることを、実況中継のように伝えながら、ドラマに導入することを考えた。レポーター役には、伊丹十三以外にはないと思った。その方法による脚本と演出を私が担当し、萩本晴彦がプロデューサーとして、主役に、旧友の仲代達矢を引っぱりだしてきた。
 問題は、実況中継として成立させるためには、フィルムの映像では、駄目だ、ということである。臨場感という一点で、ビデオ映像でなければならない。つまり、フィルムという古いメディアでは、テレビの実況という臨場感を伝えることができない、と私は判断したのだ。
 そのとき、私たちの手にあったのは、たった1台の池上製の小型ビデオカメラとたった1台のVR3000であった。海外ロケを行う場合の代替機は、ヨーロッパにはなかった。故障するかもしれないというリスクを抱えて海外ロケをするかどうかの決断をしなければならなかった。
 それにも増して難問だったのは、機材の重量の問題だった。カメラもVTRも小型とはいえ、2インチのテープは、1リール20分しかもたなかった。それを何十本も持っていく必要があった。そのうえ、カメラやVTRを駆動させるバッテリーが何十個も必要で、これがバカ重かった。
 試算したところ、必要機材の重量は1トンを超えた。それでなくても予算が不足しているのに、1トンの荷物の航空運送料は莫大すぎた。
 佐藤利明、後藤晴彦らの技術陣は、まず、VTRの回転速度を半分に落として、20分収録用のテープに40分収録できるように改良した。その他ケーブルを細いものに変えるなど、涙ぐましい努力をして、ついに300キロにまで減量に成功したのである。
『欧州から愛をこめて』は、ドキュメンタリードラマの手法の斬新さとともに、海外ロケ部分が、すべてビデオ映像であることもあって、当時のNHKをはじめとするテレビ業界の制作者や技術者に大きなインパクトを与えた。
 それまでのドキュメンタリードラマは、?実際に起ったことを、現実音を使って再現ドラマにする(『雨と血と花と』酒井誠、1960年)、?内容は虚構であるが、あたかもドキュメンタリーと思わせる手法で作る(『都会の二つの顔』佐々木昭一郎、1964年)、?ドキュメンタリーとドラマが交互に展開する(『国境のない伝記』吉田直哉、1973年)などに分けられるが、『欧州から…』がそれら先行するドキュメンタリードラマに新しさを一つ加えたとすれば、ひとつの場面に事実と虚構が交錯し融合する手法をとったことである。それは、岡崎栄の『遭難』(実在の人物が自分に起こったことを自ら演じて再現した・1965年)の系譜だったといえる。
 特筆すべきは、この番組における伊丹十三の存在である。伊丹十三ほど、テレビの番組づくりを楽しんだ人を私は知らない。『欧州から…』に先駆けて、私は痛みと組んで、大佛次郎原作の『天皇の世紀』のドキュメンタリーを作った。主人公の坂本龍馬をどう描くか、で、私たちが樹てたキャッチフレーズは「自由な人々を撮るのは、自由な人々でなければならない」だった。『欧州から…』は、伊丹にとってその集大成だった。伊丹は、その後、監督として映画界に転じ、何本かの秀作を残したが、1998年、屋上のビルから飛び降りて不可解な自死を遂げたのは周知の通りである。
 伊丹十三自死について、最近思い及ぶことがある。伊丹十三は、テレビの仕事を続けていれば死ななかったのではないか、ということである。別に確信があるわけではないが、伊丹は、稀にみるテレビ人だった、と今にして思う。
 萩元晴彦は、この番組で、芸術選奨文部大臣賞を受賞した。また、この番組で、テレビマンユニオンは、テレビ業界でも、社会的にも、プロダクションとして認知され、大きな転回点を迎えたのだった。
 テレビマンユニオンの初期の歴史が、テレビの技術史のようになったのは偶然ではない。小さな赤ん坊のような組織が、テレビ局に伍して生き延びていくにはどうしたらいいか。私たちは切迫した感覚で、その道は、テレビ局がまだ使っていない技術で新しい番組を開発することだ、と本能的に察知していたからであった。
 放送前、私は、毎日新聞に、『欧州から愛をこめて』について寄稿を求められ、次のような文章で、締めくくった。
「テレビの新しいジャンルの開拓は、断定とか固定とか既成とか拒否とかいう『恐怖政治』の破壊、そこからの脱出にあったのだといえる。『寺内貫太郎一家』や『ウィーク・エンダー』や『欽ちゃんのドンとやってみよう』や『新婚さんいらっしゃい』は、そうした感覚から(無意識にではあったかもしれないが)生み出されたものである。いま、ぼくは『歴史ドキュメンタリイ』の方法を、意識的にその延長におこうと考えているのである」(『毎日新聞』1975年12月13日夕刊)
 あれから30年以上経ったが、今なら『ウィーク・エンダー』や『欽ちゃんのドンとやってみよう』に加えて『鶴瓶の家族に乾杯』や『はじめてのおつかい』などを加えるだろう。それらの番組は、文学や演劇や映画といった旧メディアがまったく発見できなかった人間の真実を記録することに成功しているのだ。(p498-501)

ここで著者が述べている「フィルム撮りでは臨場感が出ない」という認識が、いまのTVのいわば呪いとなっているのではないかという仮説を思いついたんですけど、例によって長くなりすぎたので、それはまた別の話ということで。

テレビの青春

テレビの青春

*1:このふたつのエッセイは、『現代テレビ講座・第3巻/プロデューサー・ディレクター篇』(ダヴィッド社、1960年)で読めるようだ

*2:桜井剣友会を主宰する擬斗師

*3:この直後の今野の記述によると、これは誤りとのこと

*4:村木良彦、テレビマンユニオン創立メンバーの一人

*5:吉川正澄、創立メンバー

*6:レポーターの永六輔

*7:ママ