大根仁『モテキ』TVドラマ(2010)映画(2011)

amazonプライムビデオでドラマ版を見、huluで映画版を鑑賞。ここでは主として映画についての感想を述べます。

こういう映画は、オーソドックスに作ろうと思えば

   観客の共感を呼びやすいダメ男の主人公がいて
 → 何度も失敗するが
 → 失敗の中で気付きを得て/あるいは失敗し続ける姿が周囲の人の心を動かし
 → 成長した主人公が目的を達成する

みたいな形にするのが普通だろうと思うのだけれど、想像するに作り手(原作者の久保ミツロウと監督の大根仁)はこういうドラマツルギーを「リアルじゃない」として採用しなかったのではないかと思う。だから主人公の森山未来は、とくにはっきりとした成長をみせるわけでもなく明確なロジックのないまま、長澤まさみとなんとなくいい感じになって終わる、みたいな結末になっている。

観客にこういうドラマを納得させるのに、わかりやすいロジックを使わないという方法は当然あってよいとは思うのだけれど、だとしたらロジックのかわりになにか別のものをもってこなくてはいけないわけで、この映画の場合それを「リアリティ」に求めようとしたのだろう。実在する固有名詞のおびただしい引用や、なにより「つーか」というような現在進行形的口語表現を意識的に多用したセリフがそうした姿勢を示している。

しかし、ことセリフに関して言えば、その戦略はいまいち成功していないように思う。つまり「役者はがんばってるんだけど、やっぱりまだセリフがセリフくさい」のだ。この点、ただひとり圧倒的な巧さをみせるのがTVドラマ版の満島ひかりで、とくに第6話の演技がずば抜けていて「まるでこの人ホントにそう思って喋ってるみたい!」という(幼稚な)感想しか出てこないほど。*1しかし、いかんせんこのレベルに達している俳優がほかにいないのだった。

森山未来演じる主人公は非常に戯画化された役で、内面の声としてナレーションも担当しているという事情もあってちょっとおいとくとしても、ほかの俳優もべつに下手ではないのだけど「うわーリアル」というわけでもない、想定の範囲内の「演技」におさまってしまっている。ようするに「いつものドラマ」として見ていられる普通のドラマ/映画なのだ。けれどもし主要な役がもう一段階上リアリティを獲得することができていたなら、ストーリーの展開も「……よくわかんないけど、そういうこともあるのか?」という説得力を持ったかもしれないんじゃないかと思う。(じつはこのへん、自分が最近ずっと考えていることなのでとくに気になったのかもしれない。つまり、なぜ現代日本では「普通にリアルな演技」、それこそ新劇の俳優がはじめに修行するような「本当っぽい演技」がこれほど重視されなくなってしまったのかという問題なのだけど、これはまた別の話)

だから公開当時ラストシーンが賛否両論だったらしいのだけど、もともと万人を納得させようとする作り方をしていないせいで、個人的にはそれほど気にはならなかった。ただ、森山未來長澤まさみを追いかけて、それをさらに金子ノブアキが追いかけるカットをわざわざ入れているのに、森山未來長澤まさみが泥だらけになって笑いあっている周りをカメラがぐるぐる回って捉える画面にそれを見る金子ノブアキが映り込まないのは不自然、というか意味がわからん。それがないなら金子ノブアキは、長澤まさみと話をしていた場所に置き去りでよかったと思うのだけど。

それと、リリー・フランキー演じる墨田というキャラクターについて。原作のそのキャラがどんな感じだったか実はよく覚えていないのだけれど、ドラマ/映画ではリリー・フランキーという実体を得たことで独特の存在感と妙な説得力を持ってしまっている。つまり、もともと節操のないおっさんという設定なのでヒドいことも平気でできる反面、ここぞというところでいいこと言ってもちゃんとハマるという、まあどうにでも使えるヒジョーに便利なキャラなのである。それを知ってか知らずか、ドラマ/映画ではそれほど都合のいい使われ方をしているわけではないのがまあ救いなんだけど、こういう無敵キャラみたいなのを作っちゃうのってなんか反則のような気がする。

ドラマの満島ひかりには及ばないけど、麻生久美子は報われない台本をしっかりやっているなあと思いました。

そのほか具体的な細部についての感想は「シネマハスラー」の宇多丸さんにほぼ禿同、とか言って丸投げ (参照→ https://www.youtube.com/watch?v=t49xDo4Vezo

*1:それと第7話で野波麻帆に「ちょっと手伝っていってくれる?」と言われて「了解っす!」と敬礼するのがめっちゃカワイイ