Lebensansichten des Kater Mugi

牡猫ムギの人生観

黒沢清/湊かなえ『贖罪』感想

ゲーム・オブ・スローンズ』を第5シーズンまで見てしまったので、つぎに黒沢清の『贖罪』を見、湊かなえの原作も読んだので感想を書いておく(こういう書き方をすると何のことやら意味がわからないが、本人のなかでは筋が通っているのでこれでよいのである)。

『贖罪』は2012年にWOWOWで放送されたTVドラマで、のちに再編集され各国の映画祭に出品されたりもした作品である。公式サイトによると、

15年前、ある田舎町で小学生の少女エミリ(木村葉月)が男に連れ去られ、殺される事件が発生した。直前までいっしょに遊んでいた仲良しの小学生4人(小俣絵里佳、木村真那月、菊池和澄柴田杏花)は第一発見者になる。犯人は見つからず、事件は迷宮入り。エミリの母・麻子(小泉今日子)は、目撃した犯人の顔をよく思い出せない4人を責め「犯人を見つけなさい。でなければ、私が納得できるような“償い”をしなさい。」と激情の言葉を投げつける。事件への恐怖、麻子の言葉へのショックを抱えながら、それぞれの道を歩み大人になった4人(蒼井優小池栄子安藤サクラ池脇千鶴)。「“償い”とは何か?」という呪縛にとらわれてきた彼女たちは、やがて連鎖する悲劇を引き寄せていく。

連続ドラマW「贖罪」|WOWOWオンライン/イントロダクションより

というあらすじ。殺された少女の母親と4人の少女の、事件から15年後の姿が1話ずつ描かれる連作で、章ごとに語り手が変わる形式は原作者湊かなえのデビュー作『告白』と同じ。

「連鎖する悲劇を5人の女性の視点で描き、人間誰もが隠し持つ毒や心の闇を描きき」(上記サイト)りたかったのだろうけど、ドラマも小説も、それに成功しているようには正直思えなかった。

まず、エミリちゃんが倒れているのを発見した少女たちが、何の説明もなくすんなり4人手分けして教師や交番や親に知らせに行くことにするというのがたいへん不自然である。ただでさえつるむのが好きなあの年頃の女の子が、そういう非常事態に際して別行動はしないだろう普通。また、事件のあとその少女たちが口をそろえて「犯人の顔を覚えていない」と言い張るのにはなにかはっきりした説明が必要であって、それをスルーするのは重大な手抜きである(原作には多少触れている部分はあるのだけど、あんなものじゃとても足りないと思う)。

そのうえ主人公の女性たちがたいへん感情移入しにくい方々で、見て(読んで)いると「なんでそんなこと言うのかなあ」とか「あんなことして、悪いやっちゃなあ」なんて思ってしまい、それぞれの「悲劇的な結末」とやらも「あんなことを言ったりやったりしたんだからしょうがないよね」という印象になっちゃうのだ。「贖罪」というより「自業自得」である。

ドラマのほうで言うと、第1話の蒼井優がぎりぎりついていけるくらいで(それでも森山未來に手をかける直前になって「こんなのやっぱり普通じゃないよ」なんて言い出したりして、「え、それ今言うの?」という感じ)、第2話の小池栄子と第3話の安藤サクラはハナからコミュニケーションを拒否しているし、第4話の池脇千鶴は外面はいいが中身は腹黒いという設定で反感しか持てない。

小泉今日子は、事件のあと4人の少女に非常に激しい言葉を投げつけるようなエキセントリックな母親のはずなのだけど、成長した4人がそれぞれだいぶオカシクなっているので、彼女らに再会するときにはかえってまともになっているように見える。だから「時間が経って落ち着いたのかな?」と思っていると、第5話でまたよくわかんない行動をとったりするのでこちらは呆然とするばかり。

そもそも4人の女性が15年後に遭遇する事件というのがもともとの殺人事件とはなんの関係もないので(原作では多少つながりがあるような説明もあるがなにかの必然というわけでは全くない)、彼女らがそれに立ち向かったり立ち向かわなかったりすることが何らかの帰結であるかどうかは本人たちの内心の問題でしかない。そして、観客(読者)が彼女らの内心に寄り添うことができない以上、「犯罪者が自分勝手な理屈をこねている」というふうにしか見えなくなるのは仕方がないのだ。

ここで重要になるのが母親が事件の半年後(小説では3年後)に少女たちに投げかける台詞なのだが、実はドラマではここが小説からちょっと変更されている。

ケーキを食べたあと、事件のことを話してくれと言われ、わたしが中心になり、四人であの日のことを一通り話すと、エミリちゃんのお母さんは、いきなりヒステリックな声を上げました。
「そんな話はもうたくさん。バカの一つ覚えみたいに、顔は思い出せない、思い出せないの繰り返し。あんたたちがバカだから三年も経つのに犯人が捕まらないのよ。こんなバカたちと遊んでいたから、エミリは殺されてしまったのよ。あんたたちのせいよ。あんたたちは人殺しよ!」
 人殺し――世界が一変しました。あの事件以来、苦しい思いをしながらがんばってきたのに、まだ報われないどころか、まるで自分たちのせいでエミリちゃんが死んだように言われたのです。お母さんはさらに続けました。
「わたしはあんたたちを絶対に許さない。時効までに犯人を見つけなさい。それができないのなら、わたしが納得できるような償いをしなさい。そのどちらもできなかった場合、わたしはあんたたちに復讐するわ。わたしはあんたたちの親より何倍もお金も権力も持っているのよ。必ず、エミリよりひどい目にあわせてやるわ。エミリの親であるわたしにだけは、その権利があるのだから」

小説版『贖罪 (ミステリ・フロンティア)

麻子 「もうたくさん。バカの一つ覚えみたいに顔は覚えてない、顔は覚えてないの繰り返し。あんたたちがバカだから半年も経つのに犯人が捕まらないのよ。あたしは、あんたたちのことを絶対に許さない。なんとしても犯人を見つけなさい。でなきゃ、あたしが納得するような償いをしなさい。それが完了するまで、あたしは1分1秒たりともあんたたちひとりひとりのことを忘れません。あんたたちもこの償いから逃げ出すことは絶対にできない。そう覚悟してちょうだい」

ドラマ版『贖罪 DVDコレクターズBOX(初回生産限定)

小説の方の「あんたたちは人殺しよ」とか「あんたたちに復讐する」という文句を映画が削除したのは正解だと思う。さらに言えば、「あんたたちのことを絶対に許さない」とか「償いをしなさい」とも言わなかったほうがよかったのではないか。

この話に描かれた「悲劇の連鎖」が客観的な関連のある事件のつながりではないというのは、これが運命の悲劇であり、母親の長台詞は「呪い」「予言」として発せられなければならないということだ。そうなると母親が個人的にどう考えたり何を願ったりすることはすでに問題ではないのであって、つまりここで小泉今日子は「あたしは許さない」とか「〜しなさい」とか言う必要はなく、単に「わたしは忘れない。あなたたちも逃げられない」と言うだけで十分、というかそのほうがより強い呪いとして機能したんじゃないかと思う。

この母親の台詞から推測できるように、原作者はこうした構造の物語を自覚的に作ったわけではないようだし、ドラマの脚本もその雑さを受け継いでしまっているように見えるのです。



ドラマでは、蒼井優池脇千鶴の日常的な演技が抜群。小池栄子は(役柄のせいもあるけど)ちょっと作りすぎな感じ。安藤サクラステレオタイプな変人をなぞっているだけで面白くもなんともない。子供に連れられて加瀬亮の自宅に初めて行った場面など、あんなヘンな家なのにきょろきょろもしないというのはおかしいよ。

小泉今日子は、前述のとおり話によって役の立ち位置が違うのでやりにくそうに見えた。香川照之はいつもの香川照之である。あっ、車で小泉今日子を追いかけて掘っ立て小屋に突っ込むシーンはよかったです。

原作の方、上に引用した中で「わたしはあんたたちの親より何倍もお金も権力も持っているのよ」というトンデモナイ台詞があるけど、ここにかぎらず言葉の選び方のセンスが酷すぎる。ことに第3章だか4章の「〜だわ。〜なのよ。〜かしら」の多用は目を疑うレベル。編集者はよくこんなのにOK出したなあと思う。

そもそも、いくら子どもたちが成長して大人になったといっても、友だちの母親を下の名前(麻子さん)で呼ぶなど普通ありえないだろう。「エミリちゃんのお母さん」かせいぜい足立さんと言うのが自然でしょ。

作者は人間の「心の闇」をことさら強調するのが好きらしく、またその闇ゆえの心理や行動を描くのを(もしかすると)自分のロジカルな作風とでも思っているのかもしれないけど、いやこんなの単なる類型化だよなー、と思いました。