『シン・ゴジラ』を(やっと)見たこと
遅ればせながら、9/1(映画の日)と9/10(109シネマズの日)に『シン・ゴジラ』を見にいきました*1。そのあと例によってぐだぐだと考え込んでいたのですが、考えだすとキリがないのでとりあえずの感想。
お話そのものはようするに
「あっ、東京湾にゴジラが!」「自衛隊出動だ!」「住民の避難完了しました」「よし、攻撃開始!」「だめです、まったく歯が立ちません!」「くそうどうすればいいんだ」「ふふふ私によい考えが」「博士!」「ナントカカントカ発射!」「やった! ゴジラが動かなくなったぞ」「ふう手強い相手だった」「終」
ということなんだけど、かつての「酸化水素というと……水のことか」*2とか「わが国は非核三原則がうんたらかんたら」*3なんていう、見ていて「わかるんだけど、えーと、もうちょっとこうなんとかならんかったもんだろうか……」と、精神的にコケてしまうようなツッコミどころを極力排してこのお話を「ちゃんと」やるとこうなるよ、ってことなんだろうなと思います。
ところで、マイクル・クライトンの『アンドロメダ病原体』を読んでいたら訳者あとがきにこういう文章がありました。
「マイクル・クライトンの小説は、従来の小説の概念とはほど遠い。登場人物は印象希薄。愛憎の葛藤も異常心理の追求も、性格の謎もない。自己懐疑などつゆ知らぬ主人公たちの5日間の動きを、殺風景な舞台の中で追ったにすぎない。にもかかわらず、『アンドロメダ病原体』は読書人への意外な贈り物であり、迫真的で忘れがたい、みごとな作品である。クライトンの語り口は力強く、それを裏づける豊富な資料に支えられて、物語は時限爆弾のように劇的なテンポで進行する。しかし、作者が提供するのはスリルだけではない。『アンドロメダ病原体』は、オペレーション・リサーチの論理と、軍事科学機関の統計的全体主義を一つの小説に料理してみせる。この本は、われわれの背筋を寒くさせる回数とおなじくらいひんぱんに、さまざまな問題を提起するのだ……
これNYタイムズ紙の書評なんだけど、そのまま『シン・ゴジラ』にあてはまるなあと思いました。あるいはまた、『エアポート'75』やら『タワーリング・インフェルノ』なんていうパニック映画が大流行したころに(たしか)荻昌弘が、「パニック映画の面白さには《プロフェッショナルのカッコよさ》というものが大きな部分を占めている」ということを言っていたのを思い出したりもしました。
これ以外に、最近見たディザスターフィルムのなかではスピルバーグの『宇宙戦争』がいっとう面白かったのだけれど、その中で印象的だったのは「手製の尋ね人のチラシが無数に貼られている壁」が映るシーン。言うまでもなく911の記憶の引用ですが、この映画にもこれと同様な(震災等の)記憶の刻印がそこかしこにあって、「映像表現が更新される現場を目撃した」という気分になりました。
とまあこういう風に、自分の映画的記憶をずるずると引っぱり出される感じが心地よいです。
俳優の演技にもほとんどケチをつけるところがなかった。巷では石原さとみがボロクソに言われてたけど*4、彼女がよくないとすればそれは脚本というかムリクリな設定のせいでしょ。長谷川博己はそれこそアニメ的な単純明快な主人公をきっちりやっていて大したもの。個人的には「抜いた芝居」がどこかにあればもっとよかったと思うのだけど、これも脚本がそうなってないせいなのでしょうがない。抜いた芝居に関しては、松尾諭とか高橋一生といった他の役者さんが担っていたという感じで、中でも柄本官房長官は本当に巧い。もうチビるくらい。
ちょっと気になったのは、まだ巨大不明生物の正体がよくわからない段階での「今の、どこの役所に言ったんですか?」とか「……動くの?」「そりゃ生き物だからな」なんていう場面、笑うところだろうと思うのだけどわたしが行った2回とも(この場面にかぎらず)笑いが起きなかったこと。なんというか観客が冒頭のドキュメンタリータッチに気圧されてる雰囲気で、ちょっともったいないなーという感じでした。
それでもやっぱり、あの所謂《蒲田くん》が姿を見せるまでの、音楽なしで畳み掛ける冒頭のシークエンスは快感です。そう、平成ガメラやレジェンダリーゴジラのときも思ったけど、怪獣映画って設定がピタッとキマると気持ちよいのだ。
というのがとりあえずの感想。まだ言い足りないこともあるので、随時書き足していきたいと思います。おわり。