上前淳一郎『支店長はなぜ死んだか』を読む

……読んだんだけども、もやもやして考えがまとまらない。なので、まとまらないままわかったこと・わからないことを書いておこうと思います。

この本に収められているのは以下の4篇。
「支店長はなぜ死んだか」 重度の障碍をもつ2歳の娘を死なせてしまった父親が、有罪判決のあと自殺してしまった事件。
「誰が滝田修をかくまったか」 指名手配の新左翼の活動家をかくまったとして逮捕された人が、新聞報道の内容がでたらめだとして新聞社を訴えた話。
「女子大生は強盗をしたか」 強盗の容疑者が、たまたま拾った学生証を使って氏名を偽って自供したのを、警察が確認せず発表しそのまま報道されてしまった話。
「スポンサーの圧力はあったか」 関西のニュース番組で、琵琶湖の水質汚染には合成洗剤の影響があるのではないかという趣旨の放送が中止になったのは、洗剤メーカーの圧力のせいだとする労働組合の主張が新聞に取り上げられ、TV局から事実に反するとして法廷に持ち込まれた話。

事件の内容や背景はいろいろだけど、どれも「発表をそのまま報道したらその発表が間違い(あるいは一方的)だったのでトラブルになってしまいました」という話である。で、なんで発表をそのまま報道するかというと、それが「客観報道主義」といって現代の(日本の)ジャーナリズムの基本姿勢だからなのだそうだ。

 街をぐるぐる歩いてたまに交通事故に出会ったとしよう。黄色い車が赤い車に追突した。明らかに黄色が悪い。しかし記者には、きみ、ちょっと免許証を見せなさい、といって住所氏名をメモし、この事故を記事にすることはできない。
 警察官の到着を待ち、第一当事者と第二当事者をきちんと書きわけた調書ができ、それを所轄警察署の次長が発表するまで、書いてはいけない。それが新聞社が記者に初歩から教えるルールであり、同時にお役所である警察が公式に求めているルールでもある。(p44-45*1

 たとえば火事の記事で、焼失面積百平方メートル、と書く場合、それは記者が巻尺を使って実測したものではない。警察か消防署が測ったものを記者は書く。したがって、もとの測定に誤りがあって、実際の焼失面積は八十平方メートルであったとしても、発表のままに報道される。(p38)

 火事の焼失坪数の論理でいえば、田中のところ*2がどうもきな臭い、八十平方メートルほど焼けているかもしれない、ということを記者たちは疑っている。しかし、警察か消防署が、たしかに焼けています、百平方メートルです、といってきてくれないかぎり、手が出せない。
 かりにそこのところの制約を破って、立花氏がやったのと同じやり方で火事現場へ出て行き、同じ原稿を書いた記者がいて、それをデスクに提出したとしよう。デスクは一言いって原稿を屑籠に捨てるだろう。
「きみ、こういう金脈があるというのはどこの調べかね。これでは新聞記事にならんよ」(p40)

ということなのらしい。すなわち、「新聞が売っているのは決して『真実』でも『正確さ』でもなく、客観なのである」というわけである。
そして、「客観」とは何かというと「『権威』がいったりしたりしたこと」のことで、新聞社にとっての権威とは「政府高官・役人・大企業」の3つなんだそうだ。だから立花隆のルポが「月刊文藝春秋」に載っても新聞はずっと無視していたのだけど(「文春」は新聞にとって権威ではないので)、田中角栄が外人記者クラブの昼食会に招かれて金脈についての質問をうけた途端、各紙いっせいにこれをとりあげるということが起こったりするのである(外国の新聞は権威だから)。


といっても、日本の新聞が昔からそうだったというわけではなく、むしろ敗戦まではなんでもない話をいかに面白おかしい記事にするかが記者の腕の見せどころだと思われていて、あることないこと書くのが普通だったとのこと。たとえば戦時中、ムッソリーニの娘が来日したもののネタになるような出来事がまったくなかったので、「彼女は駅の弁当売りの『弁当ー』という掛け声を『ベニトー』と聞き違え『父の名を呼んでくれている』と喜んだ」なんていう話をでっちあげたりして、またそれが嘘だとばれてもとくに咎められたりすることはなかったという。
けれども戦争後、さすがにそれはまずいのではないかという風潮が生まれ、著者によると1950年の朝日新聞の「伊藤律架空会見記」事件*3をきっかけに「新聞は作文コンクールを厳しく禁じ、信用をかちとる手段として権威による客観を書く、すなわち共通発表に頼る方式へと百八十度転換」するにいたるというわけである。


ムッソリーニの娘の話にしろ架空会見にしろ、なんでそんなバレるにきまってるでっちあげをしようと思ったのか、現在の我々には想像もできないけれど、それこそ「客観報道主義」が定着していることの証なんだろう。あからさまなウソを書かなくなったこと自体は、まあいいことだとは思う。
しかし「権威による客観」とは要するに大本営発表であり、今風にいえばプレスリリースである。お上の言うことを垂れ流しているだけだから、記者のでっちあげがなくなったかわりに新聞は書いたことに責任を持たなくなった、と著者は言う。この本に収められた事例はすべて新聞が責任を取らないせいで起こった事件なのである。
いまでは「権威」とジャーナリズムの癒着がさらに進んで

「警察のほうが記者のさきまわりをして、記者がよろこびそうな面白おかしい材料を選んで提供しようとする。悪い記者の真似をして、あるいは週刊誌を読みすぎて、進んで情報の味つけをする。そうするのが新聞に対する広報サービスだと思っているらしい、という。…(中略)…情報の味つけによって記事の扱いが大きくなれば、それが広報担当者ないしは警察署幹部の点数になるのである」(p46)

「…話のつじつまを合わせなくてはならないのは、取材記者の立場も同じことである。…(中略)…そこで『ここは、こうだろう』と、記者の方から警察官を誘導する。強く否定されなければ『調べによれば』として、責任は警察に押しつける形で何でも書いてしまう。
 また、そのさい少しでも記事を面白くして扱いが大きくなるのを記者はねらう。…(中略)…記者のそういう本能につけ込んで警察の広報担当者はお話をつくるのである。……」(p47)

という一種の共犯関係が成立している、ということである。


表題作の銀行支店長の話などは、このような権威と報道の共犯関係が生んだ悲劇ともいえるわけである。この報道についてのレポートを書いた疋田桂一郎氏は、こうした悲劇をふせぐために

……いかに事件報道の誤りを少なくしていくかについて、…(中略)…
(1) 警察の発表内容を一度は必ず疑ってみる
(2) 現場へ行くか関係者に当たるかして、裏付け取材をする
(3) 足りない材料で無理に話の筋を通そうとしない(p66)

という提案をしているが、これはそのすぐあとに著者の言うとおり「いまさらそれをいってみても、ほとんど効果はないだろう。どれも記者たちがとっくに心得ている建前ばかり」なのであって、それよりも、

それよりも私*4は、氏*5のつぎのような提言にいちばんひかれる。
「記事のなかで、ここからここまでは警察情報であるということを明示したらどうか。『警察ではこう見ている』『以上が成城署調べ室の判断である』などという表現をもっとたくさんくりかえし使う。
 警察発表のところは全部、かぎかっこで囲んでもよい。できれば調べ官や発表者の名前を入れたりする。こうするだけで発表べったりの記事ではなくなるはずである。発表から一歩か二歩の距離がとれる。
 そのうえで、次に(あるいは前に)警察情報とは明らかに区別した形で、記者の裏付け取材とか記者が持った疑問点とかを示していく。『警察の調べによると』という断り書きで記者の推測や不確実な情報を書く嘘が、この形では使えなくなるだろう」(傍点筆者)*6
…(中略)…いまここで傍点を付した部分、これは客観報道主義からの脱却のすすめといっていいだろう。
 そうなのである。客観をよそおうことをやめて、記者の主観を打ち出す主観報道主義にかえるべきなのである。(p66-67)

というのが、上前氏のとりあえずの結論となっている。


と、なんとか大筋の要約が終わったわけですが、思ってたより長くなってしまったので私の感想は、あしたのココロだーっ!(本の紹介ってむつかしいなー)

支店長はなぜ死んだか (文春文庫 248-2)

支店長はなぜ死んだか (文春文庫 248-2)

*1:ページは文春文庫版による、以下同

*2:この前段で立花隆の『田中角栄研究』が例としてとりあげられている

*3:逮捕状が出て地下に潜伏中だった日本共産党幹部伊藤律に、秘密のアジトで会ってインタビューをしたとする虚偽の記事。詳しくはウィキペディアでも見てください→http://goo.gl/A7vjop

*4:上前淳一郎氏

*5:疋田桂一郎氏

*6:太字の部分が原文で傍点のついているところで、この「筆者」というのは上前氏のこと。…引用のなかに引用があるのってムツカシイ…