Lebensansichten des Kater Mugi

牡猫ムギの人生観

平野婦美子『女教師の記録』を読む

図書館でたまたま手に取った『女教師の記録』という本が大層面白くて、一気に読んでしまった。
これは、学校を出たばかりの女性教師が戦前(から戦中にかけて)千葉と東京の三つの小学校(尋常高等小学校)で行った教育の実践の記録である。私は全く知らなかったのだけど、刊行当時(1940年)大評判になった本だそうで、原節子主演で映画化までされたのらしい。*1

備忘のため、印象に残った部分を抜書きしておこうと思う。

まず、著者・平野婦美子氏の年譜。

1908年(明治41年)千葉県木更津市生まれ。
1926年(大正15年)千葉県女子師範学校卒業し。千葉県君津郡長浦尋常小学校に勤務。
1930年(昭和5年) 結婚し、姓を佐久間から平野に改める。市川尋常高等小学校に転任。
1938年(昭和13年) いったん退職後、東京市品川区第四日野小学校に赴任。
1940年(昭和15年西村書店より本書を出版。
1942年(昭和17年) 生活綴方運動、教育科学研究会の活動等への弾圧の影響を受け、依願退職
1947年(昭和22年) 本書が復刊される。
1948年(昭和23年) 牧書店より『愛児に贈る母の記録』を出版。*2
戦後、県社会教育指導委員、大佐和町教育委員、ひらの学園長*3を歴任して現在に至る。
2001年(平成13年) 死去(98歳)。
(本書巻末の年譜を元に作成)

新任当時まだ18か19歳である。その著者が、初めて赴任地を訪れた日の様子。

山から下りてきた童たちと逢つた。どの子もどの子も、土人のやうに口のまはりをまつ黄色に染めてゐた。黄色い花粉が着物の袖や頭についてゐた。
「椿の蜜おいしかつた?」
この村へ来て、初めて口を切つた言葉がそれだつた。
けげんさうに袴をはいた私の姿を眺めてゐたが、やがて元氣のよささうな子が
「おめえ、先生かい?」
と問ひかけた。
「さうよ、先生よ。あしたから長浦の學校へ行くのよ。」
この子供達は、私の後をぞろゞついて、宿になる家へ案内してくれた。そして私の新しい室で、日暮まで、荷物を手傳つて入れてくれたり、姉の包んでくれたお菓子を食べたりして遊んで行つた。
宿の人は皆いい人だつた。「もう、子供がなついちまつて、新米の先生みたいぢやねえ。」とほめられた。

なんだか『喜びも悲しみも幾歳月』とか『この世界の片隅に』みたいな情景。文章が上手くて、とても素直な書きぶりが印象的である。

さて、学校を出たばかりの著者は子どもたちの様子を見て大きなショックを受ける。

私は児童の欠席の多いのに驚かされました。毎日、五人から六人、多い時は、十二、三人も欠席するのです…(中略)…病気の子供が多いのです。それが殆ど医者になどかかつてゐないのです…(p14)

農村の子供は働いてゐます。この働く為に學校を休み、「ひまを下さい。」といふ子が多いのです。馬を借りたかはりに、一日子守にいつたといふ子供もゐます…(p15)

子供達は、教科書以外の一冊の本すら持つてゐません。子供の讀む本や雑誌など、この村には入つて来ないのです。
「雑誌讀んでる人ゐますか。」ときけば、
「先生、ざつしつてなんだかい。」と雑誌といふ言葉にすら接したことの無い子供達でした。それが尋常四年生です。
學校は休むし、教科書以外の文字には接しないし、家の人が物を讀んだり、書いたりする姿はめつたに見ないし、美しい繪畫や、音楽に胸をときめかす環境とはおよそ縁の遠い子供達です。しかもこの四年生の子供等が、「おれのうちで一番字を知つてるのはおれだよ。」と自ら認ずる程の周圍ですから、文字の讀めなさ、書けなさ、數へることの下手さはとてもお話になりません…(p17)

鼻つたらし小僧が澤山ゐます。朝持つて出た私の塵紙は、瞬く間になくなつてしまひ、さうさう毎日は續かないので、「新聞紙でもいいから小さく切つて鼻紙に持つて来なさい。」といつたところ、新聞紙がないといふのです。うつかり、「新聞紙もないの。」と驚けば、
「さうさ、先生のうちみたいに大盡ぢやねえから、おらが、新聞なんか讀んでねえもの。」とぴしやりとやられてしまひました。(p21)

という具合で学校の勉強どころではないのである。
とりわけ、子供の服装について。

 私は子供の服装を調べてみた。この尋常四年生の男二十七人の中、猿又をはいてゐた子はたつた一人、女子は二十五人とも一人残らずズロースをつけてゐない。そして女の子は全部髪の虱で惱まされてゐた。下着にもたかつてゐたのが男に二人、女に三人。(中略)
 こんな服装では體操などとても出来よう筈がない。運動服も持たないのだつた。體操の時間となると、それでも男の子は裾を端折り、どたゝと跳箱も跳ぶが、女の子供は、裾の亂れを氣にして、劫々跳ばうとはしない。又こんな服装では跳べとも云へないのだつた。今だにこんな學校があるのかと私は驚いてしまひ、早く、この服装改善をせねばと心が焦つた。先づ下着とズロースを作る事。それが目下の急務である。

とはいっても児童全員の下着を揃える予算がすぐに下りるわけでもないので、著者は一計を案じ

「ね、皆で、働いて、ズロースや運動服や下着を作りませうよ。先生が縫方を教へますから。」
 女の子供達は、瞳をかゞやかして
「あゝ、うれしい。先生、濱へ稼ぎに行つて作らうね。」
 と、次の日曜日には、皆で貝を掘りに行つた。牡蠣、蛤、浅蜊が澤山とれる。一心といふものは怖しいもので、一週間と経たない中に大體布地を買ふだけの金が出来た。共同購入したので別々に買ふよりは餘程安く求められた。同じ物を皆で購ふ時の買入法も教へる事が出来た。
自分達の今直接必要を感じてゐる物だけに、この裁縫の勉強はとても熱心だつた。時間が来てもやめようとは云はず、「先生、もう少し。早くこさへて着てみたい。」とせがんだ。
あらゆる教科の學習が、この呼吸でいけばよいのだ。子供自らが必要と興味と欲求とを感ずる時はこのやうに熱心な學習となるのだつた。
今まで、白い下着など着た事のない子供達が新しい恰好のシミーズを着て風邪をひくといけないといふのに「早く着てみたいんだもの。」と裁縫室でお互に、「似合ふ?」「私のも似合ふか見て。」と云ひ合つてゐるのは全くみてゐても気持がよかつた。
(中略)
校長先生に「あんたは腕がいいなあ。」とほめられた。(p25)

ほかにも教室を出て浜辺で国語や算数を教えたり、畑仕事の合間に読み書きの復習ができるよう手帳サイズの教材を作って配ったり、自宅の庭に自分で世話をする「一坪農園」を作らせたり、子供だけでなく村の人々の衛生についての啓蒙活動を行なったり、毎日村の掲示板に新聞を貼り出して村全体の文化水準の底上げを図ったりと、さまざまな試みを行なっている。こんなふうに知恵と工夫で困難を切り抜けていく様子は、学校の先生の話というより『大草原の小さな家』とか『不思議な島のフローネ』みたいな開拓ものを読むような印象である。

著者は着任から4年後の1930年に結婚して東京に転居し、職場も市川市の学校に移ることになる。ここは(おそらく)都市部の中流家庭の子供たちの通う学校で、漁村の子供たちとはだいぶ印象が違う。
その中に、子ども自身が書いたもので、強い感銘を受けるものがあった。

カエ子のおもちや 糸櫻五雄


おにはのすみをほつてたら
カエ子のおもちやんこのホウチヤウがでてきた
さうだ、カエ子といつもここで遊んだつけ
おまゐりのとき うめてやらうと
ぼくのおもちやばこへ しまつておいたの(p180)

カエ子ちゃんというのは疫痢で亡くなった妹らしい。この詩には寂しいとか悲しいとか書いてあるわけではないのに、作者の感情が強く胸に迫ってくる。*4

あるいは、品川の子ども(1年生)の「學校からかへつて」という題の作文。

がっこう から かへって


ぼくは がっこう から かへって、ランドセルを おろして、それから おかってへ いって、ゴボゴボと のどを ゆすいで ごはんを たべました。
ひとりで ちゃだんすの 中を あけて、かあちゃんが「ひるまだしてたべなよ」って しまっておいた こぶまきと うぐひすまめを ちゃぶだいの 上に 出して ひとりで ごはんを よそって たべました。
だけど ごはんが つべたくて(冷たくて)しゃうがないので おちゃを わかさうと おもって ガスを つけようとしたら、ボウッと 大きな 音が したので びっくりして 大いそぎで とめました。
ガスが きえたので ぼく とっても うれしかったの。
かあちゃん
「かじに なると いけないから マッチ つかっちゃ だめよ」って、ゆってんのに、ぼく おゆが のみたかったので マッチ つかって ごめんなさい。
こぶまきと うぐひすまめを みいんな たべちゃってから おちゃわんを をけに つけて おもてへ いって ゆきちゃんちの ろじで 石けりを して あそびました。(p401)

がっこう から かへって


ぼくは がっかう から かへると おもては かぎが かかってるので うら から はいって てを あらって、おにぎりを 三つ たべました。それから おかあさんが ほとけさまへ のっけて おいて くれた おあしを 二十せん もって おでんを かって たべたり、おせんべいを かったり、たいこやきを かったりして たべました。きんじょの 小さい 子どもにも わけてやったら
「あったかくて うまいねぇ」と いひました。
それから あそんで うちへ かへっても まだ ねえちゃんも おかあさんも かへって きないで かぎが かかって ゐました。また うらぐちから はいりました。ひとりぼっちで なんだか ねむったくなったので ふとんを しいて ねました。それから グウグウ ねました。(p402)*5

 これはおそらく1939年頃の話だと思われるのだが、この作文について著者は「二人とも戰に一家の支柱である父や兄達を送り出し、その母や姉達が代つて工場に出て働いてゐる家庭の子供達である」と書いている。社会に余裕がなくなっていくというのはこういうことなんだなあという感じ。

 年譜にもある通り、出版後「教育科学研究会」等の活動が治安維持法による取り締まりの対象となり、著者も退職を余儀なくされる。そして当然のことながらその経緯はこの本には書かれていない。あるいはまた、この時代にしては奥さんの仕事に非常に理解があったと思われる夫の平野氏など、個人的な生活についてもほとんど触れられていない。ただ、日野小学校の章で自身の妊娠について「二月近くも早い早産で、おまけに逆兒だつた。生れ落ちるとからオギアとも泣かなかつた。男の子だつた。」と短く書かれているのと、あとがきに

 それに、私がここまで歩んで来る中、父にも母にも死なれ、兄も弟も學校を出て、いざこれからといふ所でバタバタと二十臺で逝かれてしまつたのです。……常に力を與へ愛撫して育てて下さつた亡き父母上、兄上、弟の墓前に、私は私ながらの小さな幸福の中で、日々樂しく教育の仕事に働いてゐるこのさゝやかな記録を捧げて御喜び頂きこの上益々叱咤して下さいとお願ひ申上げます。(p417)

とあるのにはっとさせられるのみである。感動的な内容の背後にも、それ以上の書かれていないことがあるのだ。いや、そんなの当たり前だけど。

女教師の記録 (現代教育101選)

女教師の記録 (現代教育101選)

*1: https://www.toho.co.jp/library/system/movies/?2526

*2:この本はその後復刊されていないみたい

*3:ちょっとぐぐってみたけどこの学校のことはよくわからなかった

*4: あかい新聞店 〜慈愛の人・良寛〜 杉本武之 というブログによると、山口瞳の小説の中にこの詩に触れているものがあるということだ。

*5:二篇とも原文はカタカナ。